苦痛がよみがえる水俣病慰霊祭
2019年10月21日
19日土曜日は、水俣病の犠牲になられた方々を慰霊する「犠牲者慰霊式」が水俣市の水俣湾埋め立て地で開催されました。この行事は毎年、水俣病が公式確認された5月1日に開催されていますが、今年は令和へ改元の日に当たったために、10月に開催されました。
私はほぼ毎年この行事には水俣まで足を運んでいます。今年は公式確認63年目になります。
小さいころ、おふくろの里が天草・牛深でしたので、里帰りする時は、大津駅から水俣駅まで国鉄で行き、それから対岸の天草牛深まで連絡船で渡っていました。朝7時に家を出て、牛深に着くのが午後6時くらいでしたので10時間以上はかかっていたことになります。昭和30年代の前半、不知火海の海はきれいで、連絡船にイルカの群れが付いて来るような、何とも言えない美しく、のどかな光景を覚えていますが、その時すでに水俣病はとりわけ漁民の皆さんの体を蝕んでいたのです。
漁民の皆さんは、魚は内臓が一番おいしいという事を知っておられますので、内臓を煮るなどして食べられていたのですが、その内臓に水銀が蓄積されていたのです。
慰霊祭での祈りの言葉では、患者・遺族を代表して長女と夫を水俣病で亡くされた上野エイ子さん(91)が当時の様子を生々しく語られました。長女の良子さんは、言葉もしゃべれず、何も聞こえず、けいれんで歯を食いしばり、身もだえしながら2歳で亡くなられたことが語られました。当時は奇病と言われ、のちに胎児性水俣病と分かります。「お前は母ちゃんと呼べなかった。辛かったらろう、寂しかったろう。母は心からお詫びしたい」と述べられると、皆さん目頭を押さえておられました。
胎児性水俣病は母親のおなかで成長する胎児が、母親に溜まった水銀を胎児が吸収して、水俣病として生まれてくるものです。いわば胎児が母親に代わって水銀を吸収する、というものです。誕生の喜びに浸る間もなく、一生運命が定められた胎児性水俣病として誕生すること、これほど残酷なことはありません。
チッソが化学肥料を製造し、農作物の増産、引いては食料供給に寄与すると言われながら、一方で製造過程で水銀を垂れ流してこのような悲劇を造り上げたことは、歴史に残る「犯罪」でもあります。
今も同じようなことが世界で進行しているのではないか、科学技術の飛躍的な進歩があるとき、常に政治や社会のチェックと慎重さが必要であることを改めて思い知らされます。