山田方谷に学ぶ

2014年05月23日

 昨日は山田方谷に学ぶ会に出席しました。山田方谷は備中松山藩(今の岡山県高梁市=たかはしし)の藩主であった板倉勝静(かつきよ)に見出され、農家の身から士分に取り立てられ、藩の財政や気質を立て直した「幕末再建の神様」といわれる人です。岡山選出の平沼赳夫先生が主催されている勉強会で、今回で3回目です。
 殿様の贅沢をいさめ、側室を持つことは藩財政の負担を増やす、お酒は一日3合までと酒好きの勝静に進言します。産業を興し、和紙や絹などを製造、それらを大阪でなく、より儲かる江戸に輸出して藩を潤しました。また松山藩は5万石だったんですが、実際は1万9000石しかないことを情報公開しました。信用を失った藩札を集め、公衆の面前で焼き捨て、信用ある新たな兌換できる藩札を作ります。
 教育を大切にして農家出身であろうと商人出身であろうと優秀な人物は次々登用しました。農業を営みながら地域と藩を守る農兵制をつくり、これは後に高杉晋作がつくった騎兵隊のモデルとなります。
 幕末の学会の巨頭佐藤一斎が塾長を務める昌平校(現在の東大)に学び、全国から集まる秀才の中でも佐久間象山とともに二傑といわれました。ちなみに長岡藩の河井継之助などもそこで学び、方谷に心服しています。
 松山藩は完全によみがえり豊かになり、どこよりも教育が進み、賄賂などない清廉な地域となります。しかし、幕末には朝敵とされ薩長連合と戦うことになります。それでも明治新政府は方谷の頭脳と実践を高く評価し、何度も新政府へ政府高官としての参加を懇願しますが、「二君にまみえず」と断り、ふるさとで教育に専念しました。
 藩財政の再建を成し遂げた人物には米沢藩の上杉鷹山や信濃松代藩の恩田木工などいますが、頭脳と実践と現実性では方谷がピカ一です。それも危険な学問とも言われる「陽明学」を習得していたからでもあります。哲学者,国学者であった巨人、安岡正篤も方谷を高く評価していました。
 私は15年前、方谷を書いた本に出会い、このような政治家でありたい、と心酔しています。
 本の名前は「炎の陽明学」ー山田方谷伝ー、矢吹邦彦著、明徳出版社。多分注文でないと取り寄せられませんが、とにかくお薦めです。