ミャンマーから帰りました

2010年08月27日

 23日から27日までの5日間ミャンマーに行って参りました。ミャンマーは以前のビルマです。ミャンマーには135の民族が存在し、その最大の民族がビルマ族です。それで以前はビルマという国名でしたが、少数民族に配慮して 1989年軍事政権と同時にこの呼び名になりました。日本に非常に親近感を持っている国です。
 今回の目的はオイスカ(The Organization for Industrial, Spiritual and Cultural Advancement-International=日本のNGОでアジアや中南米の途上国に対して農林業の指導をしている、)の活動を支援する国会議員連盟があり、石破茂議員らが熱心に支援活動をしておられますが私もその一員です。その活動地点のひとつであるミャンマーの中北部にある農業研修センターを激励すると同時にミャンマー政府の協力を仰ぐために訪れました。
 
 ミャンマーはアジアでも最貧国ですがうわさに違わぬ国の情勢でした。その中でもビルマ族が住む地域では最も貧しいといわれるパコック県パカンジー村という所に農業研修センターはあります。首都のヤンゴンからバガンという都市まで北に400キロ。それから大河であるイラワジ川を船で3時間ほどさかのぼると、パコック県に入ります。船を下りて借りあげたマイクロバスで約1時間でこぼこ道を行くと研修所がありました。
 
 研修所は広さ7.5ヘクタール。養豚、養鶏、鶉の飼育、稲の栽培、野菜作り、パンなどの食品加工、さらに配合飼料や循環型農業のシステムを教え込みます。地方から集まった優秀な男女10人ずつの20人。一年かけて学びます。寝食を共にする共同生活。以前の伝習農場のような仕組みです。朝、昼は日本式の朝礼。敬礼をして、点検点呼、敬礼をして「本日異常なし、ただいまより作業開始します」という報告。消防団の点検と一緒です。それを教え込むだけでも大変な作業です。優秀な人材は1年を経過して日本に4箇所ある研修所(福岡、香川、大阪、愛知)で更に1-3年研修して帰国します。そのОBがが指導者となります。現在のスタッフ24人は全て訪日経験者、アシスタント16人も卒業生です。
 授業料や食費、宿泊費は全て無料。独立採算制で、卵の売り上げ、豚肉、鶉の売り上げ、野菜や米、パンの販売などで収入を稼ぎ出し、スタッフの給料、施設の維持管理費を出します。校舎建築や農機具などは日本、中国からのボランティアによる寄贈です。
 日本人は現地の所長が藤井さんただ一人。あとはヤンゴンに女性の斉藤さんが駐在員として関係者との連絡を取ります。それ以外は全てОBが仕切っていきます。卒業すれば各村に帰って地域のリーダーとして農業を指導します。オイスカは大変な貢献をしている団体です。

 ミャンマーの方の月収は平均で5000円。一日1ドルで暮らします。子供たちに1ドルでも上げようものなら、大変なプレゼントです。子供たちの物売りはあちこちで出会いました。心が痛みます。
 最終日は農業・灌漑(かんがい)大臣にも会えました。軍事政権初の選挙前の大切な時間、しかも閣議を欠席して会ってくれました。それだけオイスカに感謝していると同時に、11月に行われる初の選挙に対して外国の目を気にしている表れだと感じました。もし選挙で軍事政権が勝利したら首相にもなる大臣だと聞きました。名前をテイ・ウーといいます。覚えておきます。
 貧しきミャンマー。軍事政権は海外からの投資などを制限しています。成長がありません。隣のタイやマレーシアと比べるとはるかに遅れてしまいました。政治の大切さを痛感しました。

 夜9時にミャンマーをたって、朝8時に成田に着きました。出発のときの円が1ドル85円弱だったのにわずか4日間で82円になっていました。新聞を見ると民主党の代表選挙のことばかりで、円高対策がなされていません。日本もミャンマーのようにならなければと思い、改めて政治、政策に取り組まなくてはと心したところです。
 走り過ぎでついに、ひざが悲鳴を上げ歩くのがやっとの状態。明日、五島の夕焼けマラソンでハーフを走る予定だったんですが、現地には行きますが走るのは止めます。「過ぎたるは及ばざるが如し」-痛感しました。勘なしにならないように、これから気をつけます。