米の生産調整(減反)への報道がおかしいぞ

2009年06月03日

 長文になりますがお許しください。

 ここ何日か新聞・テレビは、米の減反を続けることがやる気のある農家をダメにさせ、減反の見返りとして予算化されている補助金がいかに無駄かという事を強調して報道しています。減反はやめたほうが良い、という主張の報道です。テレビのコメンテーターも減反をやめれば米の生産が増え、価格は下がり、消費量は増え、農家もやる気を出すという趣旨の発言が目立ちます。減反さえやめれば農業はハッピー、とでも言いたげです。

 ちょっと短絡的です。現場を知らない、農業の持つ意味と意義を知らない、減反に至るまでの歴史を知らない、そんな中での論調にこのまま流されるなら日本の社会や農業は逆にダメになる、と改めて危機感を覚えました。

 まず食糧管理制度というのがありました。政府がいったん米を全部買い上げ、そのあと消費者に届くようにする制度です。このため生産者米価と消費者米価が決定し、決まった額で生産と消費が行われるという米の管理システムです。米が主食で米さえ食べればとにかく飢え死にはしない、という戦後の時代の統制経済で昭和20・30・40年代は必要でした。作れば政府が買い上げてくれますので、農家は出来るだけ多く作る努力をするのは当然です。水田でなかった所もポンプをつけて開田し米が出来るようにしました。

 しかし、食生活が豊かになり食卓に米以外の食料が並ぶようになりました。パスタ、肉、さまざまな種類のパン、外国のフルーツ、さらにラーメン、手軽なカップめん、ケーキにお菓子、ピザ、韓国料理に中華料理、フランス料理にアジアのエスニック料理。日本人ほど食に貪欲な民族はいないと思うほどに世界の料理、原材料を巧みに使いこなしました。米は主食から、幾つかの食料・食材の中の一つになりました。

 そうすると消費者米価が下がってくるのは当然です。しかし生産者米価を下げれば農家が生活していけません。政府が高く買い上げて安く売るという逆ザヤが大きな財政負担となりました。結局米は需要と供給にまかせる市場穀物となりました。これまでのように「作れや作れ」ではどうしようもありません。そこで減反、生産調整です。生産者なら誰でもする自己防衛のための手段です。半導体製品などの工業製品もこの生産調整はします。いわば生産者の武器なのです。

 しかし、米が減少した分何かを作らなくては農家は生活できません。そこで麦や大豆、ジャガイモ、ニンジンなどその地域に合ったものを裏作として、また減反した田んぼに転作作物として植えることによって所得を確保しようとしました。しかし、水田地域に作る作物としては米ほどお金にはなりません。そこで政府は米を作ったときと余り遜色のない所得にするために、転作作物に一定の補助金を出し、農家の所得確保をしてきました。

  これが経過です。何も政府としては間違ったことをしてきているわけではありません。時代時代でその時が求める政策をして来ました。ところがここにきてその減反見直し論が出てきたのは、米の転作作物につける補助金のウエートが余り大きくなったことで「もっと他に使い道があるだろう」という意見が出てきたこと、補助金が複雑で分かりにくくなったこと。ここ数年大規模農家の育成を政府もしてきましたので、大規模に育った農家から「せっかく規模拡大したのだから米を作らせて欲しい」という意見、さらには「最終的には企業に農業は任せてくれ」という要望などが出てきたからだと思います。

 しかし、米を作るということは工場で車や電気製品を造るのとは決定的に違うことがあります。それは土地と水を使って自然環境のなかで作ること、そのために集落が存在するということです。

 極端な話になりますが、米づくりを究極的に効率的にするために大手の大企業に米づくりを任せたとします。効率化のために企業は土地を一箇所に集めるでしょう。しかし地権者が簡単に企業に貸すかどうか分かりません。次に水を引かなくてはなりません。しかし河川から引く農業用水路には地域の水利権があります。それらをクリアーした上で大規模な自社の機械を使って耕作したとします。作業は人件費抑制のため派遣社員を使います。そして出来上がった米は脱穀しなくてはなりません。もみすりも必要です。さらに自動車や家庭電気製品の販売ルートで売り出します。社員食堂も全て自社米を使います。消費は安定することになります。これが究極の日本の米作りの効率化、大規模化です。

 その中でどんな問題が生じるのでしょう。土地と水の問題は指摘しました。一番問題点は既存の集落があります。そこには長老も米作りの名人もいます。何百年と続いてきた歴史があります。神社に米の豊作を祈るお祭り、採り入れ後の感謝の祭り、米と生活のつながり、子供たちが集落で身につける作法や決まりごと等など。このようなものが効率化の論理によって急速になくなっていくことになります。高齢者は手持ち無沙汰でぶらぶらしていなくてはしかたがない、という状況が生まれないでしょうか。

 また消費が安定して生産するということは結局生産調整するということです。その年の生産量が決められ、その量によって作業員の数も増えたり減ったりします。雇用調整のために派遣切りもあるでしょう。

 結局、地域の集落や子供や高齢者といった勤労者以外の人たちの居場所がなくなるという、数字では測れない社会的マイナスが大きくなり、日本という国の形を壊してしまうことにならないでしょうか。壊してもその後に来る形が住民にとって住みやすいものならいいのですが、ぎすぎすしたものになって、味も素っ気もない社会になってしまうと生きがいや心の豊かさも失われてしまうことになります。都市の住民が心を癒そうとする農村地帯もなくなります。そんなことを最も心配します。

 東京をキーステーションとする新聞・テレビは最終的にどんな国と社会にするかという所まで考えて欲しい。地方に住む私たちは更に慎重に考えていかなくてはなりません。米の生産調整は必要です。そして私は企業の農業参入を拒否するものではありません。しかし、あくまで地域が主役。そして地域の人たちと協同でなくてはなりません。地域の人が自立する農業はいかにあるべきか、それが日本の自立や他の国にない日本の真に豊かな姿にもつながると考えています。