国家史観をどこまで

2006年08月29日

 最近「国家観」という言葉がよく新聞に出てきます。多分安倍総理誕生を見越して、安倍総理になったら国家を中心と考え、強い国家像を目指して外交や各種政策を展開する可能性が高いため、改めてこの国家観について考えよう、ということと思います。
 以前、歌手相良直美の歌に「二人のため世界はあるのー」というのがありました。これに時の福田赳夫首相が「そうではない。世界のため二人はあるのだ」と言ったことが新聞で取り上げられたことがありました。個人主義、利己主義、家族主義が前面に出ていた時、「二人が恋人でいられるのは世界の平和があるからだ。自分たちだけよければ良いという考え方は変えてもらわなくてはならない」ということを言いたかった、時の首相の言葉です。
 「国家観」はこれと似た所があります。国家があって初めて国民の生活がある。だから国益を生み出すために「国家の形や、強さはこれから大切なんだ」というのが国家観また国家史観、と思います。
 正論です。しかし行き過ぎると国民の生活が犠牲になります。国家のためには「欲しがりません勝つまでは」となります。戦前の軍国主義全盛期の日本であり、今の北朝鮮の姿です。今盛んに新聞などに出ているのは、安倍総理がそのような強い国家観の持ち主であるため、それを不安視しているためでもあります。
 グローバル競争の中で今後国益重視の傾向はますます強くなります。どうしても国家としての強さ、が前面に出てきがちです。「強い国家」「国家のかたち」「美しい日本」「わが祖国、日本の将来像」など私たちをひきつける、「言葉」ではありますが、家族主義などとは裏腹の所にあります。
 大切なのは、国家もそして家族も、私たちの生活も全てです。少なくとも生活観を踏みにじるような国家観は避けなくてはいけないと思います。フランスもイギリスもアメリカも生活観、家族観と国家観を並立させています。日本はいったん国家に傾くと歯止めが効かない部分があります。「国家」にだけ偏らないようすること。これは国民と政治家の役割と思います。何かしら安倍政権が近づくにつれこのような緊張感が高まってくるのも事実です。
 明朝の辻立ち7時20分菊陽武蔵丘北、8時前光の森、8時20分菊陽石坂交差点。