散るぞ悲しき

2006年06月24日

 体調はほぼ回復しました。昨夜は私のためにセットしてくれた懇談会。「今夜一晩我慢して寝ていれば完璧なんだけど」と思いながらも出席。みんなと杯を重ねました。恐る恐る飲み、食べ余り酔わないうちに丁重に退散しました。適度に飲んだのが良かったのか、朝はすっきり。アルコールが入れば体が正常になるように永年の食生活でなってしまっているのかなあ。ご心配をおかけしました。
 体調不良で寝ているとき、図書館から借りてあったノンフィクション「散るぞ悲しき」を読みました。昭和19年から20年にかけての硫黄島の戦いで総指揮官だった栗林忠道陸軍中将の戦い方、戦争観、生き方を書いたものです。作者は熊本出身の梯久美子(かけはし・くみこ)さん。今年の大宅壮一ノンフィクション賞の作品です。
 こういう戦争ものはいつも涙と腹立たしさで一杯になります。
 栗林中将はアメリカ軍がどんな手段をとっても占領したかった硫黄島の最終防衛指揮官として赴任させられます。アメリカにとって、硫黄島を取れば東京まで1250キロ。東京をはじめに日本の空爆が極めてやりやすくなるからです。大本営はそこで勝つことでない、玉砕することを栗林に命じます。当時の首相東条英機が栗林に「アッツ島のようにやってくれ」といいます。アッツ島はアリューシャン列島の小さな島で、アメリカ軍の攻撃に対し万歳をして全員が玉砕した島です。当時の新聞では軍人の美学として礼賛されました。
 しかし、栗林は潔い死より苦しくても生きて相手を殲滅させる作戦を取ります。地下通路を島に縦横につくり、上陸した米軍をゲリラ戦で苦しめます。結果として米軍の死傷者2万8686人、日本軍2万129人。アメリカの司令官をして「アメリカにとって最悪の戦いだった。第一次大戦のフランス軍より、第二次大戦のドイツ軍の配備より優れていた。敵ながら天晴れ」と言わしめます。しかも栗林は島民には迷惑はかけられない、と当初より島外に避難させ、島民は死んでいません。
 しかし、昭和20年3月後半硫黄島は陥落します。栗林は手紙の中で「大本営の見通しの甘さ、陸軍と海軍のバラバラな作戦、戦争の止め時を知らない指導者の日本国民に対する責任感の欠如」などをそれとなくしたためます。
 辞世の句として全員が劣悪な環境の下で戦いそして敗れて行く悲しさを「国のため、重き勤めを果たし得て、矢弾(やだま)尽きて散るぞ悲しき」とうたい、大本営に送りますが、大本営はこれさえも「軍人が、悲しき、とは何事か」と最終句の「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し(くちおし)」と変えて新聞に発表します。
 硫黄島が落ちた昭和20年の3月下旬というのは、沖縄の慶良間島が占領され10万人の島民が亡くなり、戦艦大和が沖縄特攻作戦で、片道の燃料で出港した時期です。もう日本は丸裸で、戦える状態でなかったことは栗林中将に限らず現場の人間はみんな分かっていた。それでも大本営は本土決戦、一億総玉砕などと無責任なことを言っていた。
 現場を知らないエリート意識と、手前勝手な空想と権力志向が最終的に国民に何をもたらすのかこのノンフィクショウンは教えてくれます。短時間で一気に読めます。秀作です。
 長くなりました。つい熱くなってしまって。