「美しい」と「きれい」

2007年01月23日

・・最初に衆議院選挙に出るとき、キャッチフレーズを決めるのに何人かと話し合いました。最終的には「きれいな選挙、きれいな政治」など「きれい」という言葉をキーワードとすることにしました。その時私は「きれい」より「美しい」のほうがいいのではないか、と言いました。しかし若い人たちは「絶対きれいですよ。美しいは一般的だし、きれいと美しいは語感が違います」と言われ、私も若い人の感性に任せようと「きれい」に承諾しました。
・・それでもやはり「美しい」の方が私にとっては良かったような気がしていました。しかし、最近「きれい」と「美しい」はかなり違う、と感じるようになりました。そして若い人の感性に従って「きれい」にしていて良かった、と思うようになりました。
・・「美しい」は何となく人に見せるために装う、というイメージが出てきました。その点「きれい」は質素、素朴な中の本当のリンとした美しさを思い浮かばせます。亡くなった方のお顔を拝見して「きれいでしたね」と言います。「美しいですね」とは言いません。部屋も、学校も街並みも「美しい」より「きれいにしていて欲しい」です。「美しい街並み」と「きれいな街」では違います。簡素さと清潔さは「きれいな街並み」です。
・・日本人の持つ「簡素」「清潔」「いさぎよさ」などは「美しい」より「きれい」が似合います。
・・最近安倍総理の「美しい国日本」という言葉を聞くたびに何か、似つかわしくないような気がします。無理して言葉だけが先走りしているような。政治家と金の問題、復党問題、大臣の辞任など「美しい」とはかけ離れたことが起きているからでしょうか。
・・「美しい政治、政治家」の前に「きれいな政治、政治家」でありたい。「美しい心と国」より「きれいな心ときれいな国」の方ほうが「武士道日本」にとっては似合っているような気がします。若い人の感性は正鵠(せいこく)を得ています。
・・明朝の辻立ち7時20分、8時大津