納豆ダイエット捏造(ねつぞう)

2007年01月22日

 「納豆ダイエット」の放映が捏造であった、という新聞報道が出ていました。「あり得ることだ」と思いました。しかし、納豆そのものが体にいいのは事実で、今朝も辻立ちに行く前、100回かき混ぜて暫く置いて、食べました。
 新聞記者を経験した身から言えば、捏造記事や捏造放送は十分に起こりうることです。それより起こらざるを得ない、と思います。しかもそれを書いた記者やプロデューサーにはそれほど罪の意識はないはずです。
 それは記事作成や放送作成に追われるからです。新聞の場合、特集記事などは一週間に何回か定期的に回ってきます。何かを書いてそこを埋めなければいけないんです。「記事を書く」ということより、「紙面を埋める」と言う作業に追われます。自然と「何かを作りたてなくてはならない」という焦りの気持ちになっていきます。そこに捏造が生まれます。しかし全くの捏造ではない。事実の改ざんです。捏造と事実の紙一重のところで勝負をする、ということに慣れてしまってきます。
 放送も一緒です。1週間に一回の一時間番組を作らなければならない、ということは大変な作業です。しかも視聴者が飛びつかなくてはならない。さらに新聞と違うのは、製作をテレビ局が直接やるのではなく制作会社に下請けに出す、ということです。自ずと「ばれなければ」という気持ちで捏造に走ったりします。そうしなければテレビ局からの製作依頼が来なくなる、という危機に見舞われます。良心や罪の意識より生活や会社経営が優先する、という訳です。
 しかし、それは不二家製菓の期限切れの原料を使って製品を造っていたのと同じです。一方で不二家をたたき、自分たちも同じことをしているというのはマスコミの驕り(おごり)の何者でもありません。
 新聞記者数え歌、というのがあります。一から十まで新聞記事作成の哀感をうたったものです。「一つ、一人で書くのを特ダネ原稿と申します。力はいります」から始まるもので、その六番目「六つ、無理やり書くのを捏造原稿と申します。後が怖いです」とあります。みんな一度くらいすれすれのことをやっているからこんな歌も出てくるのでしょう。
 ちなみに「三つ、みんなで書くのを共同原稿と申します。どこも同じです」というのがあるかと思うと、「七つ、泣く泣く書くのを抜かれ原稿と申します。涙にじみます」というのもあります。記者としての気概と正義感、使命感を見せて欲しい。
 明朝の辻立ち7時20分西合志、8時合志