靖国参拝は反対
2006年08月11日
靖国神社のことで私の現在の考えを述べます。
まず靖国神社とはいかなるものか。本当のことを言うなら、戦争が起きた時に、後顧の憂いなく戦場に行かせ、命を顧みず戦わさせる「装置」です。
戦争が起きます。戦争に行った兵士は、生きて帰る者、戦場で戦死するものの二つに分かれます。生きて帰った兵士は、家族も喜び、その後戦争の体験を下に頑張って家族を支える、という嬉しいことばかりです。一方戦死した人は、家族は悲しみ、働き手も失い路頭に迷うという、悲惨なことになります。これでは、次に戦争が起きたとき、誰も戦場に行こうとしません。また行ったしても命を懸けて戦おうとしません。
このため戦場で死んでも、英霊として祭られ、近所からも神としてあがめられる。また天皇陛下のご参拝も受けられる。残された家族も靖国に祭られている、ということで誇りを持ってその後も暮らすことが出来る、という教えの基に作られたのが、靖国神社の本当の狙いだと思います。
しかし、これは日本だけでありません。諸外国でも勇敢に死んでいった兵士は、レリーフ(彫塑)や銅像、壁画として描かれ後世に残されます。日本はそれが、神社と言う形をとっただけで、世界各国どこでもやっていることです。ヨーロッパも中国も、韓国も兵士が勇敢に戦った姿はあちこちに見ることが出来ます。それだけ、国の運命をかけて戦うのですから、これくらい士気を鼓舞する「装置」があるのは各国、当然と言えるでしょう。
しかし、そのような本質を知らなくても、戦場で散った人に対して、素朴な気持ちで手を合わせる所がある、と言うのは国家が存在する以上、絶対に必要です。ですから靖国神社の存在にいろいろ言うつもりはありません。そこで心から手を合わせられればいい、と思います。
しかし、A級戦犯の合祀という事で、現在その心から手を合わせる、ということが出来ない状態にあります。
戦犯は戦争に負けた国にのみかぶせられる罪です。ヒトラー、ムッソリーニ、東条英機。もし日本、ドイツ、イタリアが勝っていたら、この人たちは今頃「英雄」として扱われていたでしょう。だから、国際的にこの人たちが「絶対的に悪」とはいえない部分があります。
しかし、日本は無条件で降伏しました。そして東京裁判という、戦勝国が、敗戦国を裁く裁判で「戦犯」が決定しました。そしてその裁判も含めて、日本は「サンフランシスコ講和条約」という国際的なルールの条約の中で調印をし、全てを受け入れました。ならば、日本人の気持ちがどうであれ、条約は受け入れなくてはいけないし、戦犯も、日本人からすれば不本意だろうが、認めなくてはならないんです。それが戦争の勝者、敗者です。選挙だってスポーツだって、同じような面がある。負けたら次に勝つまで我慢する。
だから戦犯が決定したら、国際世論が名誉回復を認めるまで、じっとしていなくてはいけない。耐えなくてはいけない。それを密かに、戦場で散った庶民兵、いわゆる大本営の指導者からの命令で死ななくてはならなかった人と一緒に祭らせる、というのはルール違反です。国際的にも認められないと思います。50年、100年待たなくてはいけなかった。
また戦犯になった指導者は、立派な教育を受けた方です。アメリカが裁かなくても責任は十分に感じていたはずです。自分が靖国に祭られることを望んでいる人はいない、と思います。
しかも天皇陛下も参拝しておられません。密かに合祀したルール違反の中で、しかも私たちの象徴である天皇陛下も参拝されない中で、首相や閣僚といった日本の政治指導者が参拝するのはよくない。世界のどの国にも参拝を正当化する理論は通用しないと考えます。靖国の首相、閣僚の参拝には反対です。