久々に「沢木耕太郎」を読む
2022年11月26日
20年数年ぶりにノンフィクション作家「沢木耕太郎」の本を読みました。タイトルは10月に発刊されたばかりの「天路の旅人」です。日中戦争時の1940年代、満州鉄道に勤務していた山口県出身の西川一三が、密偵になるべく満鉄を退職して諜報員養成校である当時の「興亜義塾」に入り、昭和17年、25歳の時、密偵として当時の内モンゴルの張家口からラマ教の蒙古人巡礼僧に扮して、中国の西域である寧夏省や甘粛省、青海省など中国の奥深くを徒歩で野宿やお寺に泊まりながら修行と調査を続けます。やがてはチベットのラサに入りラマ教の修業を重ね、さらに戦争が終わってもインドに入り仏教の聖地ブッダガヤ、そしてカルカッタ、ブータン、パキスタンにも足を延ばします。昭和25年に身元が明らかになり、捕らえられ日本に帰国させられるまでの8年間余の旅でした。帰国後、潜行記「密偵西域八年の潜行」という著書を執筆します。「天路の旅人」は、その潜行記と沢木の西川自身への1年以上に及ぶ聴き取りをもとに描いたノンフィクションで570ページに及ぶ長編です。
高校の時からノンフィクションが大好きで、小田実の「何でも見てやろう」を手始めに、本多勝一、近藤紘一、大森実、内藤国夫、上前淳一郎、西木正明などのノンフィクションを読み漁っていました。その後の世代として登場したのが沢木耕太郎です。昭和30年代、社会党の浅沼稲次郎委員長を日比谷公会堂演説会の壇上で刺し殺した山口二矢(やまぐちおとや)を描いた「テロルの決算」や戦後の混乱の中で黒人の父を持つボクサー、カシアス内藤を描いた「一瞬の夏」などは、それまでの新聞記者が書いたノンフィクションとはやや違い、悲劇的なヒーロー性と、ある種のドラマ性を持つ、魅力をそそられるノンフィクションでした。
「事実は小説より奇なり」という言葉通り、ノンフィクションの面白さに取り付かれましたが、政治の世界に入り、政治の現実はさらにその上をいく面白さや、難しさ、奇妙さもあり、その後ノンフィクションを読むという世界からは遠ざかっていました。今回、中国の西域や現在中国支配地域であるチベットなどの放浪記であるということで政治ともかかわりがあるのではないかと思い読んでみる気になりました。
読み終えて、厳しい旅をしながら、その途中の人間愛や過酷な修行、その後の高揚感や、ヒマラヤを超えるときの息をのむような絶景への感動など、数々のドラマが描かれ、西川はお金も食料も持たない徒歩の旅だけれど、そのたびに人生の充実感に浸ります。人の幸せの尺度は複雑なものがあることを教えられます。
また、西域の人々にとって、第2次世界大戦の戦中も戦後も中国・漢人は常に恐ろしい存在であったという事も気づかされました。新疆ウイグル地区、チベットなど西域の人々にとって、中国は漢や唐の時代、明、清朝時代まで、いつ侵略され民族が消滅するかわからない、という脅威の下に自らの宗教や生活風習を守りながら生きてきた民族や国であったという事です。それは現在の中国でも変わっていません。
西川がインドに入る直前に、日本が戦争に負けアメリカに占領されているという事を人づてに聞き、自らの国家が無くなるという事がどういうことかを、西域の人々の中国に対する恐怖感と重ね合わせて考える時、それは説得力を持ちました。
ロシアを取り巻くウクライナをはじめとする国々の脅威とも共通します。
歴史をいかに重ねようと、民主主義という言葉が大切になろうと、世界の大国とその周辺諸国の緊張感は変わるものではないという事を改めて理解しました。
中国にとって、東方の国である日本は、中国との友好は進めながらも西域の国々と同じように、警戒感と緊張を常に持ち続けなくてはいけない事を「天路の旅人」は教えてくれました。
【写真は沢木耕太郎著「天路の旅人】