園田博之代議士が逝去
2018年11月12日
昨日の朝6時に園田代議士の秘書と金子恭之代議士から立て続けに電話が入っているのを着信履歴で知りました。園田先生が亡くなられたんでは、と不吉な思いに駆られながら折り返しの電話をしたらその通りでした。
午前4時過ぎに容体が悪化して永遠の眠りにつかれたそうです。
園田代議士とは父君の園田直先生との出会いから始まります。昭和54年から3年間、天草の牛深市で熊日の牛深支局長をしていた時に、園田直先生が外務大臣や官房長官を務められ、地元の支局としてはお国入りの度に、支局の管轄であった天草郡河浦町一町田地区にある自宅を訪問して話しを聴きました。地域ではちょうちん行列もあり写真入りで記事を送りました。
その後、本社の政経部に異動したあと、直先生が亡くなられ、後継選挙の際は、直先生の妻であり博之先生の継母である天光光さんと博之先生の親子対決になり、全国的な話題の選挙区として取材をしました。結果は若い博之先生が大差で当選されました。
以来、博之先生との付き合いが始まります。今の大西一史熊本市長は商社勤めを辞めて、博之先生の秘書になりました。それは大西市長のお父さん(当時県議会議員)が直先生の秘書を務められ、息子を後継にしたいということからでした。そこから私や大西親子や同じく博之先生の秘書になった今の金子代議士とのつながりが発生します。
一番印象に残っているのは、県議会議員に初当選したとき、「一生懸命に議会と地域の仕事をしろ」と激励されたことです。
園田先生が自民党を離党して「新党さきがけ」を旗揚げされたとき、園田先生を慕っていた私や大西現熊本市長のお父さんら3人の県議会議員が一緒に自民党を離党しました。3人のうち私だけが「自民党除名処分」となりました。当時の自民党を批判した離党理由を私が代表して、得意げに朗々と読み上げたからでした。43歳の時。新聞記者時代の正義感が抜けず血気盛んな頃とはいえ、若気の至りだったと思います。これまでお世話になった団体や人を、手のひらを返したように批判するのは、人間として最も嫌われる、と今も教訓にしています。
国会議員への道のりは園田先生が引かれました。国政に挑戦しようとしたとき、当時YKKの一人であった山崎拓先生を紹介されたのも園田先生です。それが縁で山崎派に入り今もお世話になり、そのまま山崎後継である石原派に所属しています。
源流は園田先生です。私の母が天草出身で園田家とは遠縁に当たり、たまたま私が天草の牛深支局長になった、というのも何かの縁です。自分の人生というのは偶然と縁が重なって、それが自分の人生を歩くにあたって一つ一つが自分の糧となり、積み重なってできるもの、と改めて感じます。偶然や縁が間違った方向に行く場合もありますが、それは自分の判断力で修正するしかありません。私は偶然や縁をいただいて出会った人に恵まれていたと思います。
これまでに私と園田先生の共通の人々の多くが鬼籍に入られました。そして今回源流の園田先生です。熊本震災からの復興で熊本3区はこれまで園田先生の選挙区であった上益城郡を私がいただき、園田先生は比例に回られ、二人三脚で仕事をしてきましたが、これからは、私の選挙区は自分で切り開いていかなくてはなりません。源流を亡くし、今度は私なりの流れを自分でつくって行きます。多くの後援者の方々や現在市長選を戦っている大西市長や同志の皆様らと常に話し合い、園田先生の志はしっかりと受け継ぎ、政治活動して参ります。
合掌