水俣病を教訓として
2013年10月10日
昨日は熊本県の水俣市で開催された「水銀に関する水俣条約外交会議」出席のため一日中水俣市にいました。
1950年代の前半、チッソ水俣工場から排出されるメチル水銀を多量に含んだ魚介類を食べた水俣市を中心とする多くの方が、全身痙攣、四肢末梢神経の麻痺、歩行困難など多くの症状を発症されました。それはだけでなく、母親の体内にいた胎児も多くの水銀をへその緒を通して摂取することなり、生まれたときから重い障害や身体の障害を背負って生まれることになりました。生まれることなく、多くの胎児が死産でもありました。
原因はチッソ水俣工場からのメチル水銀の排水とほぼ分かっていましたが、企業も国も県もこのことを隠し、結局公害の水俣病として認定されたのは20年近くを経過してからでした。
それ以降も、父母、兄弟が水俣病ということで、その家族が認定を申請しても、明確な症状がない限りは認定されないという状態が続き、水俣病は裁判と闘争の繰り返しでここまで来ました。認定患者の数は2200人以上ですが、疫学的に言えば、まだ多いようです。
そのようなわが国の悲劇を発展途上国を中心に繰り返さない、ということで、水銀の使用・生産を規制する条約を作り、各国が批准しようというのが今回の外交会議です。
諸外国の関心は高く、140カ国から環境大臣など閣僚級が出席しました。
日本も石原環境大臣、蒲島知事、宮本水俣市長ら数多くの政治家が出席し、国連からも今回の条約の中心的役割を担ったシュタイナー国連環境計画事務局長が出席されました。
会議は過去の経済優先を反省し、生命優先の社会をつくろう、過去の過ちを教訓として新たな安全社会を築いていこう、とそれぞれが述べられました。
水俣病になり、棄却を繰り返した後認定され、一生病を背負って闘ってきている水俣病の語り部の方が、過去の行政の不作為、地域社会の差別や偏見との壮絶な闘いなどを話されました。現在、経済成長を最優先にしているわが国にとっては、やはり一方で常に考えておかなくてはならないことであることを物語っていました。今日も明日も熊本市と水俣市で行われます。